特集記事 Reviews

#006 江戸木彫刻師
鈴木昌雲さん

時代の変化で
建築彫刻から美術彫刻へ。
仕事場にお邪魔します!

 大泉町の住宅街に江戸木彫刻師の鈴木昌雲さんの仕事場兼自宅があります。通りに面したショーケースには額縁や置き物などが飾られ、手彫りのあたたかさが何かを語りかけてくるように感じます。仕事場にお邪魔すると鈴木さんは、老人ホームの大きな看板に漆を塗って色付けしている最中でした。「これはケヤキを使用してるんだけど、とても硬くて長持ちする木です。でも彫るのが大変でね、水をつけながらタタキノミで彫っていくんですよ」と優しい笑顔で語る鈴木さんはとても親しみの持てる方です。

 以前は建具屋さんからの注文で欄間の建築彫刻を主に活躍してきた鈴木さんですが、バブル後、贅沢品である欄間の注文は大幅に減ってしまったそうです。生活スタイルが変わり、和室を作らない家が増えたことも大きな要因。「時代の流れだから仕方ないですね。今は一般の方からの注文で、家紋や置き物といった美術彫刻に需要が変化してきました」

 仕事場の奥には木工ミシン、棚には多種の砥石が並び、作業台の横には刃先がきれいに磨かれた彫刻刀やノミがズラリ。全部合わせて150本位あり、中には30年以上も使い続けているものもあるそうです。手に馴染んだ道具を巧みに使い、鈴木さんは名木に様々な模様や絵を浮き上がらせていきます。木彫刻師という職業、彫るという技術だけでなく構図や絵心など様々な要素が求められます。そして1日の大半を座って彫り続けるという根気や集中力も…。鈴木さんがこの世界へ入ったきっかけを聞いてみました。

手に職を…この道一筋50年、
修業時代は月休2日で、
月給1,000円だった!

 鈴木さんが木彫刻の世界へ入ったのは昭和33年、この道一筋50年!「“手に職を”ということで中学卒業と同時に、池袋で木彫刻を営んでいた叔父(佐藤昌月氏)のところに住み込みで10年間修行しました。この世界、半分以上が縁故関係なんです。当初は月に2回の休みで、月給は1,000円でした。4年立つと職人として扱われるので、時間も自由になり定時制高校へ通いました」まさに千里の道も一歩から。ひと彫りひと彫りの努力と時間の積み重ねでしか技は体得できません。

 「独立の時に師匠からお得意さんを2軒分けてもらったんだけど、時代も良かったんでしょうね。仕事がどんどん入ってきてお礼奉公する暇もありませんでした。年末なんかは徹夜続きでしたよ」
 
大泉町に移り住み、独立と同時に結婚。「若い人がやりたいと行ってときどき来ますが、この仕事で生活していくのは困難な時代ですから弟子はとってません。これからは私たち夫婦が食べていければいいので、身体の動く限り丁寧な仕事をして続けていきたいですね。この世界じゃあ、まだまだ若手の方なんですよ(笑)」
 
職人さんは自分の定年を自分で決める、強い生き方です。



自分がした仕事に偶然会えたとき、
この上ないうれしさが込み上げる

 40年以上大泉町の住人、鈴木さんの好きな場所はどこでしょう。
「やっぱり石神井公園ですね、緑も多いし。昔、野球をやっててね、ナイターをしながら夜桜を眺めたりしました。きれいでしたねえ。あと、うちの裏手にある清水山憩いの森。ここは23区内で唯一カタクリの群落があるんですよ、ほら」
壁には大きく引き延ばしたカタクリの花の写真が飾られていました。

 この仕事をしてうれしかったことを尋ねると
 「欄間など建築彫刻の仕事は発注者が建具屋さんだから、どこへ納品されたかはわからないんです。通りがかりの家の戸が開いていて、自分の彫ったものを偶然見つけときはなんとも言えないうれしさを感じますね。自分の仕事は何年たっても見ればすぐわかりますから」
 
時代の変化で厳しい風に吹かれている木彫刻ですが、鈴木さんが心を込めて彫った作品たちは、それぞれの生活の中に調和して長く息づいていくことでしょう。

(2007年3月2日更新)




鳳凰の木彫刻。
彫るだけでも4、5日かかりました。

木の特性を知り、木目を読み、 木と対話して、この世に二つとない 作品ができ上がります。

木の持つ天然の色をいかして 花を表現しています。

絵から木彫刻を起こす こともあります。

鈴木さんの家紋。

プロフィール

鈴木昌雲さん

鈴木昌雲さん

1942年生まれ。本名は鈴木靖雄さん。昭和33年、中学を卒業してすぐに佐藤昌月氏に弟子入りし、10年間住み込みで修業。昭和42年に練馬区大泉町で独立。日本木彫連盟・江戸木彫刻会員、美術工芸彫刻・建築装飾一般。練馬区伝統工芸会の会員。

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